コンテンツにスキップ

皇位継承順位

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

皇位継承順位(こういけいしょうじゅんい)とは、近現代の日本の皇室において皇室典範に定められた皇位継承順序に基づく、各皇族皇位の継承順位である。

概要

[編集]

古代において皇太子(ひつぎのみこ、こうたいし)の地位が確立される過程の中、兄弟継承から親子継承に変化した。飛鳥時代以降は女性天皇も出現するが、中継ぎとして未亡人または政治的な意図により独身を貫いた[1]者のみであり、男系・父系は維持された。その後、近代まで皇位継承やその順序に関する明文のルールはなく、その時代により変化はあるものの皇統に属する男系・父系で皇族(皇親)の身分を有する者が皇位を継承してきた。なお、醍醐天皇は臣籍に生まれ、皇籍に復帰して即位した唯一の例である。

1889年明治22年)に旧皇室典範が制定され、継承順位が明文化された。この皇室典範では当初永世皇族制としたものの、皇族数の増大への懸念から1920年(大正9年)に臣籍降下が認められ、以降12名の皇族男子(各宮家の次男以下)が姓を賜った上、侯爵または伯爵の位を授けられて臣籍降下していった。

1947年昭和22年)5月3日に施行された現行の皇室典範では、皇位継承に関してもおおむね旧典範を踏襲したものの、旧典範が庶子にも皇族資格、皇位継承資格を認めていたのに対して、現行の典範はいずれも嫡出子一夫一婦制での正妻の子)のみに限定した点が異なる[注釈 1]。なお、現行の典範施行時にいた庶子の皇族は嫡出子とみなされた。

1947年(昭和22年)10月14日に11宮家51名(うち男子10宮家26名)の伏見宮系皇族臣籍降下(いわゆる皇籍離脱)して以降、皇位継承資格を有する者が最も多かった時期は、1965年(昭和40年)11月30日の礼宮文仁親王の誕生から、1987年(昭和62年)2月3日の高松宮宣仁親王が薨去するまでの9名である。また、最も少ない時期は2019年令和元年)5月1日に第126代天皇徳仁が即位して以降の3名である(「#現在の皇位継承順位」参照)。

令和元年、第126代天皇の即位時点で皇位継承資格を有する者は3名である。皇位継承資格を有する者のうち、最年少は天皇の甥にあたる第2位の悠仁親王(18歳)、最年長は天皇の叔父(第125代天皇明仁の弟)にあたる第3位の常陸宮正仁親王(89歳)であり、3名はいずれも天皇から見て傍系である。皇位継承資格を有する3名の最近共通祖先は第124代昭和天皇香淳皇后夫妻である。

令和元年の天皇即位以降、1926年(昭和元年)12月以来93年ぶりかつ現行の典範下では初めて、内廷皇族皇太子又は皇太孫となるべき男子が1人も存在しない状態となった[注釈 2]。なお、上皇明仁(第125代天皇)は、天皇の退位等に関する皇室典範特例法の規定により、皇位継承資格を有しない。

日本国憲法および皇室典範における皇位継承順序

[編集]

現在では日本国憲法および皇室典範で、皇位継承およびその順序について規定されている。

皇位継承順位例

[編集]

《》は皇室典範2条1項に示されている順序の各号と続柄 [2]

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
-
 
第7位
《七.皇伯叔父》[2]
(天皇の叔父)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
天皇
 
第6位
《六.皇兄弟》[2]
(天皇の弟)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第1位
《一.皇長子》[2]
(天皇の長男)
(皇太子)[3]
 
 
 
 
 
第4位
《四.皇次子》[2]
(天皇の次男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
第2位
《二.皇長孫》[2]
(皇太子の長男)[3]
 
第3位
《三.皇長子の子孫》[2]
(皇太子の次男)
 
第5位
《四.皇次子の子孫》[2]
(天皇の次男の長男)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
現行皇室典範下の皇位継承
回目 継承 践祚日 天皇との続柄
1 昭和天皇上皇明仁(皇太子明仁親王) 1989年(昭和64年)1月7日 皇長子
2 上皇→天皇徳仁(皇太子徳仁親王)
明仁から徳仁への皇位継承
2019年(平成31年)4月30日退位
2019年(令和元年)5月1日即位
天皇の退位等に関する皇室典範特例法による。
皇長子

現在の皇位継承順位

[編集]
日本の皇位継承順位令和元年(2019年5月1日 -
順位 画像 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日 現年齢 今の天皇から見た続柄 摂政就任順位
   
第1位 秋篠宮文仁親王 あきしののみや ふみひと 男性 1965年11月30日
(昭和40年)
59歳 親等2/弟 / 上皇明仁第2皇男子 第1位
第2位 悠仁親王 ひさひと 男性 2006年09月06日
(平成18年)
18歳 親等3/甥 / 秋篠宮文仁親王第1男子 第2位
第3位 常陸宮正仁親王 ひたちのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
89歳 親等3/叔父 / 昭和天皇第2皇男子 第3位

系図

[編集]
  • 数字は皇位継承順位:2019年(令和元年)5月1日-現在


 
 
 
 
 
今上天皇
 
現在の親王
 
崩御退位した天皇
/薨去した皇族男子
 
昭和天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
上皇
(明仁)
 
常陸宮正仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
今上天皇
(徳仁)
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
皇位継承順位
2019年(令和元年)5月1日 -
天皇との続柄 親王
○内は順位、()内は年齢。
皇長子 - -
皇長孫 - -
その他の皇長子の子孫 - -
皇次子及びその子孫 - -
その他の皇子孫 - -
皇兄弟及びその子孫 秋篠宮文仁親王(59)
悠仁親王(18)
伯叔父及びその子孫 常陸宮正仁親王(89)
他皇統皇族 - -

皇室会議

[編集]

皇室会議(こうしつかいぎ)は、日本皇室に関する重要な事項を合議する国の機関である。

皇室典範第28条以下に定められる。皇位継承順位の変更(同第3条)は、出席議員の3分の2以上の多数で決する。

議員

[編集]

皇室会議は皇室典範第28条第1項・第2項に基づき、議員10名で組織される。

現在の議員は、以下の通り。

皇室会議議員
氏名 身分 生年月日(年齢) 備考
皇嗣文仁親王 皇族 (1965-11-30) 1965年11月30日(59歳)
正仁親王妃華子 皇族 (1940-07-19) 1940年7月19日(84歳)
額賀福志郎 衆議院議長 (1944-01-11) 1944年1月11日(80歳)
玄葉光一郎 衆議院副議長 (1964-05-20) 1964年5月20日(60歳)
関口昌一 参議院議長 (1953-06-04) 1953年6月4日(71歳)
長浜博行 参議院副議長 (1958-10-20) 1958年10月20日(66歳)
石破茂 内閣総理大臣 (1957-02-04) 1957年2月4日(67歳) 議長
西村泰彦 宮内庁長官 (1955-06-29) 1955年6月29日(69歳)
今崎幸彦 最高裁判所長官 (1957-11-10) 1957年11月10日(67歳)
三浦守 最高裁判所判事 (1956-10-23) 1956年10月23日(68歳)

旧皇室典範:1889年(明治22)-1947年(昭和22)における皇位継承順位

[編集]

(旧)皇室典範において、皇位は「祖宗ノ皇統ニシテ男系ノ男子之ヲ継承ス」(旧典範第1条)と明文化され、その順序は、直系長系長子優先とし、同等間(例えば兄弟間など)では嫡庶長幼の順となっていた(同第2条から第8条までの各条文を参照)。

例えば、伏見宮貞愛親王(1858-1923)には山階宮晃親王(1816-1898)をはじめ10人以上の実兄がいたが、その大半が庶子であり、嫡出の兄2人も早世していたため、嫡出子の貞愛親王が兄弟間で最上位の継承順位を有した。なお、庶子の兄弟間では実母の出自身分の差に関係なく長幼の順となっていた。

また、庶子孫一夫多妻制側室の子)も嫡出子孫が不在の場合には継承できた(実際に、大正天皇の生母である柳原愛子は側室であった)。

皇位継承順位
  • 皇統の男系男子(父系男子)。
  • 皇長子優先
  • 皇長子が不在の時は、皇長孫。
  • 皇長子及びその子孫も不在の場合は、皇次子及びその子孫。
  • 皇子孫が不在の場合は、皇兄弟及びその子孫。
  • 皇兄弟及びその子孫が不在の場合は、皇伯叔父及びその子孫。
  • 皇伯叔父及びその子孫が不在の場合は、それ以上で最近親の皇族。
  • 嫡出子孫優先
  • 皇庶子孫が継承可能なのは、皇嫡子孫が不在の場合。
  • 兄弟間も嫡出子優先・長子優先。
  • 皇嗣に、精神若しくは身体の不治の重患があり、又は重大な事故がある場合は、皇族会議及び枢密顧問の意見を参考に前条に定める順序に従って、皇位継承の順序を変更することが可能。
旧皇室典範下の皇位継承
回目 継承 践祚日 天皇との続柄
1 明治天皇大正天皇(皇太子嘉仁親王) 1912年7月30日
(明治45年/大正元年)
皇庶長子(第三皇男子であるが、兄2人は早くに薨去)
2 大正天皇→昭和天皇(摂政宮・皇太子裕仁親王) 1926年12月25日
(大正15年/昭和元年)
皇長子

皇位継承順位の推移(旧皇室典範制定以降)

[編集]
19世紀
(1801-1900)
20世紀
(1901-2000)
21世紀
(2001-2100)
'89 '93 '94 '01 '02 '05 '12 '15 '26 '33 '35 '46 '48 '53 '54 '60 '65 '87 '89 '02 '06 '12 '14 '16 '19
明治 大正 昭和 平成 令和
皇族名 22 26 27 34 35 38 4 8 10 21 23 28 29 35 40 62 64 14 18 24 26 28
嘉仁親王 1 1 1 1 1 1
輝仁親王 2
裕仁親王 2 2 2 1 1
秩父宮雍仁親王 3 3 2 2 1 2 3 3 3
高松宮宣仁親王 4 3 3 2 3 4 4 4 3 3 4 5
三笠宮崇仁親王 4 3 4 5 5 5 4 4 5 6 5 4 4 5 5 5
明仁親王 1 1 1 1 1 1 1 1 1
常陸宮正仁親王 2 2 2 2 2 3 4 4 3 3 4 4 4 4 3
寬仁親王 6 6 5 5 6 7 6 5 5 6
桂宮宜仁親王 7 6 6 7 8 7 6 6 7 6
高円宮憲仁親王 7 8 9 8 7
徳仁親王 2 2 2 1 1 1 1 1 1
秋篠宮文仁親王 3 3 2 2 2 2 2 2 1
悠仁親王 3 3 3 3 2

過去の皇位継承順位:1947年(昭和22)以後

[編集]
  • 称号は、いずれも当時のもの。

現皇室典範施行時:旧皇族(11宮家51名)の皇籍離脱前:1947年(昭和22)10月13日時点

[編集]

皇男子および直宮家の6名(第1位から第6位まで)

[編集]

11宮家の26名(第7位から第32位まで)

[編集]

[6] [7] [8] [9]

順位 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日/当時の年齢 続柄
 
第1位 継宮明仁親王 つぐのみや あきひと 男性 1933年12月23日
(昭和08年)
13歳 親等1/昭和天皇第1皇男子
第2位 義宮正仁親王 よしのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
11歳 親等1/昭和天皇第2皇男子
第3位 秩父宮雍仁親王 ちちぶのみや やすひと 男性 1902年06月25日
(明治35年)
45歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第2皇男子
第4位 高松宮宣仁親王 たかまつのみや のぶひと 男性 1905年01月03日
(明治38年)
42歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第3皇男子
第5位 三笠宮崇仁親王 みかさのみや たかひと 男性 1915年12月02日
(大正04年)
31歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第4皇男子
第6位 寬仁親王 ともひと 男性 1946年01月05日
(昭和21年)
1歳 親等3/ / 三笠宮崇仁親王第1男子
第7位 伏見宮博明王 ふしみのみや ひろあき 男性 1932年01月26日
(昭和07年)
15歳 伏見宮博義王第1男子
第8位 山階宮武彦王[注釈 4] やましなのみや たけひこ 男性 1898年02月13日
(明治31年)
49歳 山階宮菊麿王第1男子
第9位 賀陽宮恒憲王 かやのみや つねのり 男性 1900年01月27日
(明治33年)
47歳 賀陽宮邦憲王第1男子
第10位 邦寿王 くになが 男性 1922年04月21日
(大正11年)
25歳 賀陽宮恒憲王第1男子
第11位 治憲王 はるのり 男性 1926年07月03日
(大正15年)
21歳 賀陽宮恒憲王第2男子
第12位 章憲王 あきのり 男性 1929年08月17日
(昭和04年)
18歳 賀陽宮恒憲王第3男子
第13位 文憲王 ふみのり 男性 1931年07月12日
(昭和06年)
16歳 賀陽宮恒憲王第4男子
第14位 宗憲王 むねのり 男性 1935年11月24日
(昭和10年)
11歳 賀陽宮恒憲王第5男子
第15位 健憲王 たけのり 男性 1942年08月05日
(昭和17年)
5歳 賀陽宮恒憲王第6男子
第16位 久邇宮朝融王 くにのみや あさあきら 男性 1901年02月02日
(明治34年)
46歳 久邇宮邦彦王第1男子
第17位 邦昭王 くにあき 男性 1929年03月25日
(昭和04年)
18歳 久邇宮朝融王第1男子
第18位 朝建王 あさたけ 男性 1940年05月11日
(昭和15年)
7歳 久邇宮朝融王第2男子
第19位 朝宏王 あさひろ 男性 1944年10月07日
(昭和19年)
3歳 久邇宮朝融王第3男子
第20位 梨本宮守正王 なしもとのみや もりまさ 男性 1874年03月09日
(明治07年)
73歳 久邇宮朝彦親王第4男子
第21位 朝香宮鳩彦王 あさかのみや やすひこ 男性 1887年10月20日
(明治20年)
59歳 久邇宮朝彦親王第8男子
第22位 孚彦王 たかひこ 男性 1912年10月08日
(大正元年)
35歳 朝香宮鳩彦王第1男子
母:鳩彦王妃允子内親王(明治天皇第8皇女)
第23位 誠彦王 ともひこ 男性 1943年08月18日
(昭和18年)
4歳 孚彦王第1男子
第24位 東久邇宮稔彦王 ひがしくにのみや なるひこ 男性 1887年12月03日
(明治20年)
59歳 久邇宮朝彦親王第9男子
第25位 盛厚王 もりひろ 男性 1916年05月06日
(大正05年)
31歳 東久邇宮稔彦王第1男子
母:稔彦王妃聡子内親王(明治天皇第9皇女)
第26位 信彦王 のぶひこ 男性 1945年03月10日
(昭和20年)
2歳 盛厚王第1男子
母:盛厚王妃成子内親王(昭和天皇第1皇女)
第27位 俊彦王 としひこ 男性 1929年03月24日
(昭和04年)
18歳 東久邇宮稔彦王第4男子
母:稔彦王妃聡子内親王(明治天皇第9皇女)
第28位 北白川宮道久王 きたしらかわのみや みちひさ 男性 1937年05月02日
(昭和12年)
10歳 北白川宮永久王第1男子
第29位 竹田宮恒徳王 たけだのみや つねよし 男性 1909年03月04日
(明治42年)
38歳 竹田宮恒久王第1男子
母:恒久王妃昌子内親王(明治天皇第6皇女)
第30位 恒正王 つねただ 男性 1940年10月11日
(昭和15年)
7歳 竹田宮恒徳王第1男子
第31位 恒治王 つねはる 男性 1944年08月03日
(昭和19年)
3歳 竹田宮恒徳王第2男子
第32位 閑院宮春仁王 かんいんのみや はるひと 男性 1902年08月03日
(明治35年)
45歳 閑院宮載仁親王第2男子

11宮家51名の皇籍離脱後:1947年(昭和22)10月14日

[編集]
  • 11宮家51名の(旧皇族)皇籍離脱による男子皇族26名(順位:第7位から第32位まで)の皇位継承資格の喪失後。
  • 皇室典範は、同年1月16日に公布され、同年5月3日の日本国憲法施行と同時に既に施行されていた。
順位 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日/当時の年齢 昭和天皇から見た続柄
 
第1位 継宮明仁親王 つぐのみや あきひと 男性 1933年12月23日
(昭和08年)
13歳 親等1/第1皇男子
第2位 義宮正仁親王 よしのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
11歳 親等1/第2皇男子
第3位 秩父宮雍仁親王 ちちぶのみや やすひと 男性 1902年06月25日
(明治35年)
45歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第2皇男子
第4位 高松宮宣仁親王 たかまつのみや のぶひと 男性 1905年01月03日
(明治38年)
42歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第3皇男子
第5位 三笠宮崇仁親王 みかさのみや たかひと 男性 1915年12月02日
(大正04年)
31歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第4皇男子
第6位 寬仁親王 ともひと 男性 1946年01月05日
(昭和21年)
1歳 親等3/ / 三笠宮崇仁親王第1男子

礼宮文仁親王誕生後:1965年(昭和40)11月30日

[編集]
  • 1952年(昭和27年)11月10日に立太子の礼が行われ、継承順位第1位である明仁親王が正式に皇太子となった。
  • この後、2006年(平成18年)9月6日に悠仁親王が誕生するまでの約40年間、皇族として誕生した者の全員が、女子すなわち内親王女王であった。したがって、この間、新たに皇位継承順位に加わる者は皆無であった。また、1947年(昭和22年)10月14日の11宮家51名の(旧皇族)皇籍離脱による男子皇族26名(順位:第7位から第32位まで)の皇位継承資格の喪失以降、皇位継承資格を有する者が最多だった時期である。
順位 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日/当時の年齢 昭和天皇から見た続柄
 
第1位 皇太子明仁親王 あきひと 男性 1933年12月23日
(昭和08年)
31歳 親等1/第1皇男子
第2位 浩宮徳仁親王 ひろのみや なるひと 男性 1960年02月23日
(昭和35年)
5歳 親等1/皇孫 / 皇太子明仁親王第1男子
第3位 礼宮文仁親王 あやのみや ふみひと 男性 1965年11月30日
(昭和40年)
0歳 親等1/皇孫 / 皇太子明仁親王第2男子
第4位 常陸宮正仁親王 ひたちのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
30歳 親等1/第2皇男子
第5位 高松宮宣仁親王 たかまつのみや のぶひと 男性 1905年01月03日
(明治38年)
60歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第3皇男子
第6位 三笠宮崇仁親王 みかさのみや たかひと 男性 1915年12月02日
(大正04年)
49歳 親等2/皇弟 / 大正天皇第4皇男子
第7位 寬仁親王 ともひと 男性 1946年01月05日
(昭和21年)
19歳 親等3/甥 / 三笠宮崇仁親王第1男子
第8位 宜仁親王 よしひと 男性 1948年02月11日
(昭和23年)
17歳 親等3/甥 / 三笠宮崇仁親王の第2男子
第9位 憲仁親王 のりひと 男性 1954年12月29日
(昭和29年)
10歳 親等3/甥 / 三笠宮崇仁親王第3男子

第125代天皇(現:上皇)即位後:1989年(昭和64)1月7日

[編集]
  • この間、1987年(昭和62年)に高松宮宣仁親王が薨去した。
  • 1989年(昭和64年)1月7日の昭和天皇崩御に伴い、皇位継承順位が第1位であった皇太子明仁親王が第125代天皇に践祚(即位)した。
    • 継承順位第2位の徳仁親王の順位が第1位に繰り上がり、1991年(平成3年)2月23日に立太子の礼が行われて正式に皇太子となった。
  • 平成時代には、高円宮憲仁親王、寬仁親王、桂宮宜仁親王、三笠宮崇仁親王が薨去した。そして2006年(平成18年)に悠仁親王(秋篠宮文仁親王第1男子)が誕生した。
順位 皇位継承資格者 読み 性別 生年月日/当時の年齢 第125代天皇(上皇明仁)から見た続柄
 
第1位 皇太子徳仁親王 なるひと 男性 1960年02月23日
(昭和35年)
28歳 親等1/第1皇男子
第2位 礼宮文仁親王 あやのみや ふみひと 男性 1965年11月30日
(昭和40年)
23歳 親等1/第2皇男子
第3位 常陸宮正仁親王 ひたちのみや まさひと 男性 1935年11月28日
(昭和10年)
53歳 親等1/皇弟 / 昭和天皇第2皇男子
第4位 三笠宮崇仁親王 みかさのみや たかひと 男性 1915年12月02日
(大正04年)
73歳 親等2/叔父 / 大正天皇第4皇男子
第5位 寬仁親王 ともひと 男性 1946年01月05日
(昭和21年)
43歳 親等3/従弟 / 三笠宮崇仁親王第1男子
第6位 桂宮宜仁親王 かつらのみや よしひと 男性 1948年02月11日
(昭和23年)
40歳 親等3/従弟 / 三笠宮崇仁親王第2男子
第7位 高円宮憲仁親王 たかまどのみや のりひと 男性 1954年12月29日
(昭和29年)
34歳 親等3/従弟 / 三笠宮崇仁親王第3男子
系図
 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寬仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王


皇位継承問題

[編集]

秋篠宮文仁親王の誕生から、その第一皇子悠仁親王の誕生までの約40年間、皇族男子(親王、王)が誕生しなかった。皇族男子の不足から、将来的に皇室典範に定める皇位継承資格者(父系男系の男性皇族)が存在しなくなる可能性が生じ、様々な議論が行われた。

参考文献

[編集]
  • 遠山美都雄『天平の三姉妹』中央公論社中公新書〉、2010年1月。ISBN 978-4121020383 

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ その他の差異については身位も参照。
  2. ^ 1926年(大正15年)12月25日の昭和天皇践祚時点で、20代であった天皇と香淳皇后には男子がいなかった。継承順位1位の皇長弟秩父宮雍仁親王は立太子されることはなく、1933年(昭和8年)12月23日に継宮明仁親王が誕生した。
  3. ^ a b c 嘉仁親王(大正天皇)は明治天皇の側室(柳原愛子)の子であるが、皇太子とされた(旧皇室典範の規定では、側室の子より、皇后の子の方が優先して継承するとされていたため、側室の子の場合、皇位継承順位第1位は確定しない。)。そのため、裕仁親王(昭和天皇)も父の嘉仁親王(大正天皇)が即位するまでは皇太子となる立場は確定していなかった。
  4. ^ 1920年代以降、精神疾患のため海軍も休職を経て予備役であり、皇族会議にも出席できる状態になかった(本人の項を参照)。

出典

[編集]
  1. ^ 遠山 2010 p.57-58
  2. ^ a b c d e f g h
  3. ^ a b
  4. ^ 皇室会議議員名簿 - 宮内庁”. 宮内庁 (2024年12月23日). 2024年12月25日閲覧。
  5. ^ a b c d e f g 旧皇室典範の条項
  6. ^ p. 2-5, "Japanese Royalty" Japan Year Book 1939, Kenkyusha Press, Foreign Association of Japan, Tokyo
  7. ^ Genealogy of the House of Fushimi
  8. ^ Genealogy of the Fushimi-no-miya (jp)
  9. ^ Bix, Herbert P. (2001). Hirohito and the making of modern Japan (Book) (1st Perennial ed.). New York: Perennial. pp. 382–383. ISBN 978-0060931308 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]