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日本の第59代天皇 ウィキペディアから
宇多天皇(うだてんのう、867年6月10日〈貞観9年5月5日〉- 931年9月3日〈承平元年7月19日〉[2])は、日本の第59代天皇(在位:887年9月17日〈仁和3年8月26日〉- 897年8月4日〈寛平9年7月3日〉)。 諱は定省(さだみ)。
宇多天皇 | |
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即位礼 | 887年12月5日(仁和3年11月17日) |
大嘗祭 | 888年12月28日(仁和4年11月22日) |
元号 | 仁和、寛平 |
時代 | 平安時代 |
先代 | 光孝天皇 |
次代 | 醍醐天皇 |
誕生 | 867年6月10日(貞観9年5月5日) |
崩御 |
931年9月3日(承平元年7月19日) 仁和寺 |
大喪儀 | 931年9月19日(承平元年8月5日) |
陵所 | 大内山陵 |
追号 |
宇多院 (宇多天皇) |
諱 | 定省 |
別称 | 寛平法皇、亭子院、朱雀院太上天皇、満徳法主天、日本金剛覚大王、日本金剛蔵王、日本僧本 |
父親 | 光孝天皇 |
母親 | 班子女王 |
女御 |
藤原温子 藤原胤子 橘義子 橘房子 菅原衍子 |
更衣 |
源貞子 徳姫女王 |
子女 |
醍醐天皇 敦実親王 斉世親王 ほか(后妃・皇子女節参照) |
皇居 | 平安宮 |
光孝天皇の第七皇子であり、母は皇太后班子女王(桓武天皇の皇子仲野親王の娘)であった。父帝光孝は、先代陽成天皇の大叔父にあたり、陽成が不祥事によって退位させられたために即位に至ったことから、自身の後は陽成の同母弟貞保親王など嫡流に皇位が戻ることを考え、元慶8年(884年)6月に26人の皇子皇女に源姓を賜い臣籍降下させた。定省王もその一人であり、源定省(みなもと の さだみ)と称した。定省が陽成に王侍従として仕えていた時、殿上の間の御椅子の前で在原業平と相撲をとり二人の体が椅子にぶつかって手すりが折れた逸話が残っている[3]。また父に献上された黒猫を下賜され、これを飼育していた[4]。
光孝は立太子を決することのないまま、即位から3年後の仁和3年(887年)に重態に陥った。関白藤原基経は、天皇の内意が貞保親王ではなく源定省にあるとした。貞保は皇統の嫡流に近く、また基経にとっても甥ではあったが、その母藤原高子は基経とは同母兄妹ながら不仲という事情もあったため忌避された。一方、基経自身は特に定省を気に入っていたわけではない[5] ものの、定省は基経の仲の良い異母妹藤原淑子の猶子であり、天皇に近侍する尚侍(ないしのかみ)として後宮に強い影響力を持つ淑子が熱心に推したこともあり、朝議は決した。同母兄の源是忠を差し置いて弟の定省が皇位を継ぐことには差し障りもあったため、基経以下の群臣の上表による推薦を天皇が受け入れて皇太子に立てる形が取られた[6]。定省は8月25日に皇族に復帰して親王宣下を受け、翌26日に立太子したが、その日のうちに光孝が崩じたため践祚し、11月17日に即位した。
宇多は経験に乏しく、天皇の勤めを果たすためにも4代に渡って執政の任に当たってきた基経の協力は不可欠であった。宇多は11月17日付で基経に送った手紙の中で「もし基経が執政を辞退してしまうならば、自分には政治を執ることなどできないから、君主の号を抛って山林に逃げ隠れるしかないと思っている」と述べている[7]。
宇多は即位式後間もない11月21日に、基経に引き続き執政の任に当たるよう詔書を発した。この詔書には「関白」の語が含まれており、後の役職としての関白の語源となる。しかし基経が儀礼的に辞退した後に作成した詔書にある「宜しく阿衡の任をもって卿の任とせよ」の文言に基経が立腹し、政務を拒んで自邸に引き籠もってしまう[8]。この詔書は宇多が「朕之博士是鴻儒也(私の師は大学者である)」と信任した参議左大弁橘広相が起草したものであったが、他の朝廷の学者の多くは広相の文言には問題があると一致していた[9]。翌仁和4年(888年)6月、宇多は「阿衡」の詔書を取り消した。しかし、このことは逆に広相が勅を誤ったということを宇多が認めたこととなり、かえって広相は窮地に追い込まれた[10]。基経も「阿衡」の問題が解決しないうちは参内できないと返答した。宇多は基経が光孝天皇から宇多の行く末を託され、宇多も基経を頼ったのにそれが裏切られたとして「(基経が)必ずや能う限りお仕え致します」と言ったではないかと日記に不満を書きつけている[11]。
宇多は基経の娘藤原温子を入内させるなどして和解に務め、10月になってようやく事態を鎮静化させた。寛平3年(891年)1月に基経が死去するに及んで、宇多は親政を開始することができた。なお宇多が勅願寺として仁和寺を建立したのは、この阿衡事件の最中の仁和4年のことである。
宇多天皇は基経の嫡子時平を参議にする一方で、源能有など源氏や菅原道真、藤原保則といった藤原北家嫡流から離れた人物も抜擢した[12]。この期間には遣唐使の停止、諸国への問民苦使の派遣、昇殿制の開始、日本三代実録・類聚国史の編纂、官庁の統廃合などが行われた。また文化面でも寛平御時菊合や寛平御時后宮歌合などを行い、これらが多くの歌人を生み出す契機となった。[要出典]
宇多は寛平9年7月3日(897年8月4日)に突然皇太子敦仁親王を元服させ、即日譲位し、太上天皇となる。この宇多の突然の譲位は、かつては仏道に専心するためと考えるのが主流だったが、近年では藤原氏からの政治的自由を確保するためこれを行った、あるいは前の皇統に連なる皇族から皇位継承の要求が出る前に実子に譲位して己の皇統の正統性を示したなどとも考られている(後述の『大鏡』にある陽成上皇の言がその暗示と考えられている)。譲位にあたって書かれた『寛平御遺誡』には右大臣源能有の死に強い衝撃を受けたことが書かれており、これを譲位と結びつける見方もある。
新たに即位した醍醐には自らの同母妹為子内親王を正妃に立て、藤原北家嫡流が外戚となることを防ごうとした。また譲位直前の除目で菅原道真を権大納言に任じ、大納言で太政官最上席だった時平の次席としたうえで、時平と道真の双方に内覧を命じ、朝政を二人で牽引するよう命じた[13]。しかしこの人事は権門の公家には不評で、公卿が職務を拒むという事件に発展した。道真は宇多に願ってかかる公卿らに出仕を命じてもらい、ようやく新政がスタートした。
宇多は譲位後も道真の後ろ盾となり、時平の独走を防ごうとしていたが、一方で仏道に熱中し始めた。昌泰2年(899年)10月24日には出家し、東寺で受戒した後、仁和寺に入って法皇となった。さらに高野山、比叡山、熊野三山にしばしば参詣し、道真の援助を十分に行えなくなった。
昌泰4年(901年)正月、道真は宇多の子で自らの婿でもある斉世親王を皇位に即けようとしていたという嫌疑で、大宰府へ左遷された。この知らせを受けた宇多は急遽内裏に向かったが、宮門は固く閉ざされ、その中で道真の処分は決定してしまった。日本史学者の河内祥輔は、宇多は自己の皇統の安定のために醍醐の皇太子決定を急ぎ、結果的に当時男子のいなかった醍醐の後継をその弟から出すことを考えるようになった。加えて醍醐が許した基経の娘・藤原穏子の入内にも反対したために、これに反発した醍醐が時平と図って法皇の代弁者とみなされた道真を失脚させたという説を提示している。
延喜元年(昌泰4年を改元)12月13日、宇多は受戒の師を益信として東寺で伝法灌頂を受けて、真言宗の阿闍梨となった。これによって宇多は弟子の僧侶を取って灌頂を授ける資格を得た。宇多の弟子になった僧侶は彼の推挙によって朝廷の法会に参加し、天台宗に比べて希薄であった真言宗と朝廷との関係強化や地位の向上に資した。そして真言宗の発言力の高まりは宇多の朝廷への影響力を回復させる足がかりになったとされる。延喜21年(921年)10月27日に醍醐から真言宗を開いた空海に「弘法大師」の諡号が贈られているが、この件に関する宇多の直接関与の証拠はないものの、醍醐の勅には太上法皇(宇多)が空海を追憶している事を理由にあげている[14]。
宇多の動きを牽制し続けていた藤原時平が延喜9年(909年)に没し、宇多に近い弟の忠平が実権を握ると、宇多の朝廷への影響力を回復させることになる。延喜15年(915年)、忠平の嫡男実頼(後の関白)が元服した際に醍醐に対して実頼への叙爵を指示している[15]。その後も忠平を介する形で天皇への働きかけを行っている[16]。
延喜13年3月13日(913年4月22日)には後院の亭子院で大掛かりな歌合「亭子院歌合」を開いた。これは国風文化の盛行の流れを後押しするものとなった。 延喜11年(911年)6月15日、亭子院の水閣を開いた時、臣から酒豪を選んで宴に招き、酒を賜り酒量を競わせた。(亭子院酒合戦)[17]。
醍醐の健康状態が悪化していくと、宇多がその代理として政務を代行する場面が登場するようになる。そして、延長8年(930年)に醍醐が崩御すると、「天皇の遺詔」があったとして新帝朱雀天皇の摂政となった藤原忠平の要請を受ける形でその後見となっている[18]。
陽成上皇との関係は微妙だった。宇多は皇位に即く前に侍従として陽成の側に仕えており、神社行幸の際には舞を命じられたこともあった[19]。『大鏡』には、陽成が宇多のことを、「あれはかつて私に仕えていた者ではないか」と言ったという逸話[20] が残っているが、陽成が復位を画策しているという風説は宇多を悩ませた。
保延年間に書かれた『長秋記』(保延元年6月7日条)によれば、陽成上皇が宇多天皇の内裏に勝手に押し入ろうとしたために、上皇といえども勅許なく内裏に入る事は罷りならないとこれを退けたが、後に昌泰の変が起きた際には醍醐天皇に菅原道真の左遷を止めさせようとして内裏に入ろうとした宇多上皇自身がこの先例を盾にそれを阻まれたという記載がある。
ただし、宇多上皇が内裏に入るのを拒まれたのは、薬子の変の教訓から成立した原則によるもので、陽成・宇多両上皇のケースはこの原則に基づいたものとする考えもある[21]。
54 仁明天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
55 文徳天皇 | 58 光孝天皇 | 人康親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
56 清和天皇 | 惟喬親王 | 59 宇多天皇 | 藤原基経妻 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
57 陽成天皇 | 貞純親王 | 真寂法親王 (斉世親王) | 敦実親王 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
源清蔭 〔陽成源氏〕 | 源経基 〔清和源氏〕 | 源雅信 〔宇多源氏〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
60 醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宇多天皇から見て光仁天皇は男系(父方・光孝天皇)では5世祖であるが、女系(母方・班子女王)では高祖父にあたる。
宇多天皇の若年時からの妻は藤原胤子・橘義子などで、宇多天皇が臣籍降下し源氏となっていた頃に生まれた第一皇子敦仁親王(後の醍醐天皇)・第二皇子斉中親王・第三皇子斉世親王は生誕時は源氏であった。
女御藤原温子は関白藤原基経の娘で、宇多天皇即位後に入内した。女御藤原胤子が病没後、皇太子敦仁親王の養母となり、醍醐天皇即位に伴い、皇太夫人となる。晩年は東七条宮(亭子院)に住んだため、東七条后、七条后とも呼ばれた。
橘義子所生の斉世親王は、菅原道真の女を妻としたことから、後年菅原道真の誣告に際してその名が取り沙汰された。また女御菅原衍子は道真の女である。
宇多天皇の孫は、ほとんどが源氏の姓を賜り、臣籍降下した。 宇多天皇から出た源氏を宇多源氏といい、敦実親王から出た系列が最も栄えた。敦実親王の子源雅信は左大臣を務め、その娘倫子は藤原道長の正室となり、上東門院(一条天皇の中宮藤原彰子)や関白藤原頼通の母となった。朝廷貴族としての地位を維持した子孫としては、公家の庭田家や綾小路家(ともに羽林家)などがあり、また雅信から近江に土着した武家の佐々木氏が出ている。
『大和物語』において、宇多天皇は亭子院、敦慶親王は故式部卿の宮、依子内親王は「女五のみこ」、孚子内親王は「桂のみこ」として、それぞれ登場する。
通説では譲位後の在所の名称より宇多天皇と追号されたと言われているが、実際の居宅は仁和寺・亭子院・六条院を主としていたという(宇多院[注釈 2]は元は父の光孝天皇の親王時代の邸宅で、宇多天皇はここで成長したからだという説もある)。 また、寛平法皇、亭子院(ていじのいん)、朱雀院太上天皇などの名称でも呼ばれた。
天神縁起『日蔵夢記』では、満徳法主天という神になったという。別称 日本金剛覚大王、日本金剛蔵王、日本僧本。日本太政威徳天となった菅原道真を慰撫し、その眷属が暴れまわるのを、蔵王菩薩、八幡大菩薩と共に食い止めているという。
陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市右京区鳴滝宇多野谷にある大内山陵(おおうちやまのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は方丘。
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