能登国
令制国の一つ
能登国(のとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。現在の石川県北部にあたる。
能登国 | |
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■-能登国 ■-北陸道 | |
別称 | 能州(のうしゅう) |
所属 | 北陸道 |
相当領域 | 石川県北部(能登半島) |
諸元 | |
国力 | 中国 |
距離 | 中国 |
郡・郷数 | 4郡26郷 |
国内主要施設 | |
能登国府 | 石川県七尾市 |
能登国分寺 | 石川県七尾市(能登国分寺跡) |
能登国分尼寺 | (未詳) |
一宮 | 気多大社(石川県羽咋市) |
沿革
編集成務朝に能等国造が置かれ、次いで雄略朝に羽咋国造が置かれたと伝えられる。養老2年(718年)5月2日、越前国から羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を分立して能登国が成立した[1]。
天平13年(741年)12月10日に越中国に併合された[2][注釈 1]
天平勝宝8歳(757年)5月8日、越中国から再び分立した[3]。
また、天元3年(980年)、『和名抄』の編纂で有名な源順が能登国守として赴任している。
能登郡の名称は後に鹿島郡へと改められた。
江戸時代には大部分が加賀藩領であったが、一部に幕府領(旗本領を含む)があった。また、一時的に譜代の小藩が設置されているが(能登下村藩・能登西谷藩)、いずれも短期間で廃止されている。
寛文11年(1671年)5月4日、加賀藩は、羽喰郡を羽咋郡、鹿島郡を能登郡と改めた[4]。
近代以降の沿革
編集領域
編集明治維新の直前の領域は現在以下のようになっている。太字の自治体及び郡は全域が、通常体は一部が国土にあたる。
国内の施設
編集国府
編集源順の『和名抄』には「能登国国府在能登郡」とあり、現在の七尾市古府の総社の付近か府中町にあったと推定されている。発掘調査はまだなされていない。
国分寺・国分尼寺
編集- 能登国分寺跡 (七尾市国分町) - 国の史跡。
- 国分僧寺は、新たに創建されたものではなく、飛鳥時代後期(700年頃)に創建された大興寺を承和10年(843年)12月1日に国分寺としたものである[6]。国分寺跡には建物の基壇や柱跡が表示され、南門と塀などが復元されている。
神社
編集地域
編集郡
編集国司
編集能登守
編集- 村国子老 764年(天平宝字8年)8月4日 - 9月25日、外従五位下
- 平群虫麻呂 764年(天平宝字8年)9月25日 - 従五位下
- 多治比名負 774年(宝亀5年)3月5日 - 9月4日、従五位下
- 巨勢馬主 774年(宝亀5年)9月4日 - 、従五位下
- 安倍高貞 869年(貞観11年)1月13日 -、従五位下
- 藤原季行 1133年(長承2年)5月24日 - 1140年(保延6年)4月7日、従五位上
- 平教経 1179年(治承3年)-、従五位下
守護
編集鎌倉幕府
編集室町幕府
編集- ?~1336年 - 吉見頼為?
- 1336年 - 吉見頼顕
- 1337年~1346年 - 吉見頼隆
- 1348年~? - 吉見氏頼
- 1349年~1351年 - 桃井盛義?
- 1352年~1379年 - 吉見氏頼
- 1379年~1391年 - 本庄宗成
- 1391年~1406年 - 畠山基国
- 1406年~1432年 - 畠山満則
- 1432年~? - 畠山義忠
- 1478年~1497年 - 畠山義統
- 1497年~1500年 - 畠山義元
- 1500年~1506年 - 畠山慶致
- 1506年~1515年 - 畠山義元
- 1515年~1542年 - 畠山義総
- 1543年~1551年 - 畠山義続
- 1551年~1565年 - 畠山義綱
- 1565年~1574年 - 畠山義隆
武家官位としての能登守
編集脚注
編集注釈
編集出典
編集参考文献
編集- 角川日本地名大辞典 17 石川県
- 旧高旧領取調帳データベース
- 日置謙『加能読史年表』名著出版、1972年5月26日。NDLJP:9536291。(要登録)