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近世ナポリ王国・シチリア王国の王朝 ウィキペディアから
シチリア・ブルボン朝(シチリアブルボンちょう)、ナポリ・ブルボン朝、またはナポリ=シチリア・ブルボン朝は、1734年から1860年まで続いた、ブルボン家によるナポリ王国・シチリア王国(のち両シチリア王国へ統合)の支配を指す。ブルボン家のイタリア語名に基づいてボルボーネ朝とも呼ぶ。
シチリア=ブルボン家 House of Bourbon-Two Sicilies | |
---|---|
国 | 両シチリア |
主家 | ブルボン家 |
当主称号 |
ナポリ王・シチリア王(1735年 - 1806年) 両シチリア王(1815年 - 1860年) |
創設 | 1734年 |
家祖 | カルロ7世および5世 |
最後の当主 | フランチェスコ2世 |
現当主 |
ペドロ・デ・ボルボン=ドス・シシリアス(カラブリア系) カルロ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ(カストロ系) |
断絶 | 1861年 |
シチリア晩祷戦争以来分裂していたナポリ王国とシチリア王国は、シチリア王を兼ねたトラスタマラ家のアラゴン王アルフォンソ5世のナポリ征服により、一旦同じ国王を戴くことになった。この時アルフォンソ5世は「両シチリア王」の称号を用いたが、ナポリとシチリアではそれぞれの政治体制が維持されたままであった。その後、シチリア王位はアラゴン王位とともにアルフォンソの弟フアン2世からその息子フェルディナンド2世へ継承され、ナポリ王位はアルフォンソの庶子フェルディナンド1世からその子・孫へ継承されるが、フェルナンド2世の再征服によって王位は再び統合された。フェルナンド2世の後継者であるハプスブルク家のカルロス1世以後、スペイン王が同時にナポリ王・シチリア王を兼ねることになった。
ハプスブルク朝断絶後、フェリペ5世が即位してスペイン・ブルボン朝(ボルボン朝)が成立するが、スペイン継承戦争の結果、ナポリとシチリアはオーストリア・ハプスブルク家に奪われた。
フェリペ5世の後妻エリザベッタ・ファルネーゼは失地回復を目指し、息子であるパルマ公カルロは1733年に勃発したポーランド継承戦争に乗じてナポリ・シチリアを制圧することに成功した。1738年のウィーン条約でカルロはナポリ・シチリアの所有権を認められ、ナポリ王カルロ7世及びシチリア王カルロ5世として即位したが、その際に「両シチリア王」と名乗っている。
とはいえ2カ国は統一された訳ではなく、宮廷及び政府機関はもっぱらナポリに置かれ、シチリアには総督が派遣されることになった。カルロはピサ大学の元教授ベルナルド・タヌッチの補佐を得て国王主催の国務会議を開き、教会、司法、商業、税制等の諸改革を行ったが、保守派の抵抗に遭い、成功しなかった。やがて、異母兄のスペイン王フェルナンド6世が嗣子を残さずに1759年に死去すると、カルロは8歳の三男フェルディナンドに両王位を譲り、自身はスペイン王カルロス3世として即位した。通常、フェルディナンドをもってブルボン(ボルボーネ)=シチリア家の始まりとする。
フェルディナンドの即位後も、実権はタヌッチが握ったままであった。タヌッチは1764年の飢饉への対処、イエズス会の解体とその土地の配分、世俗の国立学校の設置等の功績を残したが、フェルディナンドに代わって政治を掌握した王妃マリア・カロリーナに疎まれて1776年に罷免される。その後、マリア・カロリーナは啓蒙主義者たちを加えた財政最高評議会を設置したり、開明派貴族のドメーニコ・カラッチョをシチリア総督にして諸改革を行った。
1789年にフランス革命が勃発する。通常、フランス革命をもって国民国家の誕生と言われているが、イタリアにもその思想が入り、統一への気運が高まる。1796年にナポレオン・ボナパルトがイタリアに侵攻すると、フェルディナンドは徹底抗戦の構えを見せるが、逆にフランス軍のナポリ侵入を招いてしまい、家族と共々シチリアへの逃亡を余儀なくされた。王を失ったナポリでは、1799年にパルテノペア共和国の成立が宣言される。フェルディナンドは王党派とホレーショ・ネルソン提督の支援でナポリの奪還に成功するものの、フランス皇帝となったナポレオンによって1806年に再びナポリを追われ、イギリス海軍の庇護の許でシチリアに逼塞することになる。
ナポレオンは最初に兄ジョゼフを、次いで義弟ジョアシャン・ミュラをナポリ王位に就けた(ジョアッキーノ1世)。ナポレオンがロシア遠征に失敗して失脚すると、ウィーン会議によりボルボーネ家はナポリを奪回することに成功する。ミュラはナポリ奪回の動きを示すも、失敗して処刑されるが、その支持者はナポリに広く残存した。
1816年にナポリとシチリアは完全に統合されて両シチリア王国が成立し、フェルディナンドは両シチリア王フェルディナンド1世を称するが、これはナポリによるシチリア支配以外の何物でもなかった。シチリアの民衆の鬱積は溜まり、最終的にはボルボーネ朝滅亡への道を開くのである。
ボナパルト朝統治下で誕生したカルボネリーアは各階層に勢力を広げ、その勢いは侮れないものであった。1820年にカルボネリーアはナポリで大規模な反乱を起こし、フェルディナンド1世は自由主義的な憲法の発布を余儀なくされる。革命の余波はシチリアにも及んだが、シチリアの場合は体制の変換よりもナポリからの独立を求めていた。シチリアの分離独立を認めないナポリ政府軍は、革命政府の内部分裂を利用してこれを制圧する。そのナポリ政府もオーストリアによって潰され、自由主義の動きは圧殺される。反動政治は1825年に新たに即位したフランチェスコ1世の下で強化される。カルボネリーアはやがて衰退し、ジュゼッペ・マッツィーニの青年イタリアに取って代わられる。
1830年に即位したフェルディナンド2世も反動政治を継続した。1848年にフランスで勃発した2月革命はヨーロッパ中に伝播するが、イタリアではそれに先立って革命運動が勃発した。シチリアで反乱が起き、その動きがナポリにも及んだのである。これに驚いたフェルディナンド2世は内閣を改造させて、自由主義的な憲法を発布した。一方のシチリアでは、ルッジェーロ・セッティモを首相とする臨時政府の樹立を宣言した。臨時政府はシチリアの完全独立を目指していた。
これらの動きに対し、フェルディナンド2世はクーデターを起こして自由主義者を閣内から追放するとともに、自由主義的な新聞を廃止して引き締めを図った。1849年にはシチリア臨時政府を潰して反動政治を完全に復活させた。一見、成功したかに見えるフェルディナンド2世の政策であったが、時代の流れを止めることは出来なかった。
1859年にフランチェスコ2世が王位を継承する。その頃、イタリアではサルデーニャ王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とその宰相カヴール伯爵カミッロ・ベンソがサヴォイア家の下でのイタリア統一を目指し、諸王国を次々と併合していったが、最大の障壁が両シチリア王国だった。そのような状況下で、シチリアの分離独立の動きは絶好の好機であった。
1860年5月11日、ジュゼッペ・ガリバルディ率いる赤シャツ隊がシチリアに上陸した。裏をかかれたボルボーネ軍はカラタフィーミの戦いで敗北した。5月27日にはパレルモに赤シャツ隊が突入して、壮絶な市街戦となった。市民の中には赤シャツ隊に呼応する者も多く、ボルボーネ軍は休戦協定を結んだ後にメッシーナへ後退した。7月20日のミラツォの戦いで、ボルボーネ軍は決定的な敗北を喫し、シチリアはガリバルディの手に落ちた。
シチリア失陥の報を聞いたフランチェスコ2世は、メッシーナ海峡の守備を固めて上陸に備えたが、ガリバルディは隙を見てナポリ本土に上陸する。フランチェスコ2世はナポリをガリバルディに明け渡し、ガエータの要塞に籠った。ここでは王妃マリア・ソフィアの活躍が目立った。マリアは自ら戦場に出て督戦し、負傷者を運んだり、食物を分け与えた。マリアの奮戦も空しく、1861年にガエータも陥落して、両シチリア王国は滅亡した。フランチェスコ2世はローマに亡命するが、そのローマも1870年にサルデーニャ王国に併合され、さらにパリへ逃れた。
イタリア王国成立後も南イタリアではボルボーネ朝復辟を求めてたびたび反乱が起きた。マリアもその動きを積極的に支援したが、成功しなかった。それでもボルボーネ家の復活を求める動きは現在の南イタリアにも存在する。
最後の国王フランチェスコ2世には男児がなく、その弟アルフォンソの家系が両シチリア王国滅亡後の家督を継承している。ただし、2つの家系に分裂して、両シチリア・ボルボーネ家家長の地位と王位請求権を争っている。
スペイン・ブルボン家やハプスブルク=ロートリンゲン家とは何重にも複雑な婚姻関係を重ねた。
最後の国王フランチェスコ2世には子供がなかったため、その死後は異母弟カゼルタ伯アルフォンソの系統が家長となり、王位請求権を継承した。しかし、その息子の一人カルロ・タンクレーディがスペイン王女マリア・デ・ラス・メルセデスとの最初の結婚に際して継承権を放棄したことの有効性が問題となり、現在まで2家の間で家長の座が争われている。
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